2009年07月04日

IT関連技術の進歩に

IT関連技術の進歩に伴いパソコンが急速に普及し、各医療機関ではレセコン(レセプトコンピュータ)だけでなく電子カルテも次第に普及しつつある。しかし、患者の重大な個人情報を取り扱うレセプト及びカルテであるだけに、個人情報漏洩事件が頻発する現在、周辺整備をなおざりにしたまま拙速にITを本格導入すれば、医療現場は混乱するのみならず、日本の医療が崩壊するとの指摘さえある。

本来、診療を行う為に掛かるコストを支払う診療報酬にIT関連機器(レセコンや電子カルテ等)導入の為の費用は全く考慮されず、その全てを医療機関側が負担してきた。2005年、国は医療制度改革大綱にレセプトのオンライン化の義務化を盛り込んだが、2006年度の診療報酬改定でも初診料の電子化加算(3点、30円に相当)を新設したのみで、約650億円と試算される財源については全く触れていない。誰でもインターネットを通じて様々な医学情報を容易に得られるようになり、ことに先端医療や新興感染症など最新の情報については、場合によっては医師と患者の知識の逆転現象さえ珍しくなくなった。

従来、医師会等を通じてのみ情報を得ていた全国各地の医師同士も、各種掲示板、メーリングリスト(ML)を通じて横断的に双方向性に情報・意見交換できるようになった。学会等ではなかなか得られない臨床現場で役立つ医学・医療の経験・知識が、全国的に共有される意義は大きい。

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1999年冬のインフルエンザ流行時、medpract-ML(実地医療研究ML)という医療系MLを通じてアマンタジンの有効性が初めて全国的に注目され、その後、迅速診断法や抗インフルエンザ薬などの情報も、医学会や医師会に先んじて様々な医療系MLに流れ、全国各地の医師同士の実体験が共有された。これを学問的に将来性のあるものに取りまとめたものとして、日本臨床内科医会のインフルエンザ全国調査研究:FLU・STUDY/JPAが注目された。

2009年06月14日

交通機関が未発達で徒歩による旅行が主だった

交通機関が未発達で徒歩による旅行が主だった時代には、霊山に参拝することが民衆の娯楽であり、願いの一つであった。先述の伊吹山や筑波山は信仰の拠り所として神の住む霊山の一つとして位置付けられており、遠くに見ることはできても実際に現地に赴くには遠い存在であった。そのような霊山の麓で育った生き物の中でガマガエルは得体の知れぬ生き物の一つとして崇められた。中でも四六のガマと呼ばれるガマガエルは特異とされ、周囲に鏡を張った箱に入れた後、自らの姿を見たガマガエルが脂汗を出し始め(自らの顔を今業平と思っていたガマガエルが己の醜い顔を見て驚き、脂汗を流すという)、その脂汗を収集して一定期日のあいだ煮つめて膏薬油をとる方法やガマの霊力を口上で語った。
四季の山野草・高山植物情報
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お茶の発祥
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ミュージカル

オカルト

刀の切れ味を示す口上では、半紙大の和紙を二つ折りに切っていき、「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚…」と口上し、和紙を半折りして徐々に小さく切っていく。この時、据え物斬りに相当する枚数に至る紙を切ることで刀の切れ味を客に示し、小さくなった紙片を紙吹雪のように吹き飛ばして、切れ味ととも華やかさを示す。紙を切ることで周囲に群がった客に対して切れ味を実演した後、自らの二の腕に刃を当てて傷を付けて血が出ることを見せる。その切り口にガマの油を塗ることで止血作用が明らかなことを示す。この口上に前後して、ガマの油を塗った二の腕は刃物で切ろうとしても切れず効能があることを示す(刀にガマの油を塗る場合もある)。

古典落語の『高田の馬場』はガマの油売りの口上から始まり膏薬が古傷に効くと聞いて古傷を見せた武士と膏薬売りとの仇討ちが題材となっており、噺家による口上が見所の一つである。 『ガマの油』の題そのものの落語もある。こちらは酒に酔ったガマの油売りが、少し深く切りすぎてしまい、売り物のガマの油を多量に塗り付けるも血が止まらなくなり、傷薬を売りに来たにも関わらず慌てて聴衆に傷薬を持ち合わせている者がいないか尋ねるという落ちがつく。

2009年05月29日

歴史小説

歴史小説(れきししょうせつ)とは、主として歴史上に実在した人物を用い、ほぼ史実に即したストーリーが展開されるフィクションのことである。

一般的には、歴史小説と 時代小説とは、ほぼ同じ意味に用いられているが、文学の上では、かなり明確な区別がある。

歴史小説は、主要な登場人物は、歴史上実在した人物で、主要な部分はほぼ史実の通りに進められる。著者がその主人公の生き方や思想に感動したことによって物語が生まれ、主人公の行動あるいは言動に、著者が訴えたいモチーフが込められており、純文学的な趣が強い。山岡荘八の?川家康や丹羽文雄の親鸞、蓮如などは典型的な歴史小説といえる。

一方、時代小説は、「銭形平次」のような架空の人物を登場させるか、実在の人物を使っても、史実と違った展開をする。徳川光圀(水戸黄門)は、実在の人物であるが、助さん・格さんの二人の子分を従え、諸国を巡り歩いて裁きをするなどというのは、史実と照らし合わせるとかなり荒唐無稽である。いくら天下の副将軍でも、大名が勝手にほかの殿様の領地にはいることは禁止されていたからである。つまり、史実や著者の訴えよりも、おもしろさ、いわゆるエンターテインメント性を重要視したのが時代小説である。吉川英治の一連の作品や池波正太郎の鬼平犯科帳などは時代小説である。かつて「チャンバラ」と呼ばれた劇を「時代劇」というが、その小説版と見てもいい。

もちろん、歴史小説は「論文」ではないので、おもしろくなければ誰も読まず、ある程度の脚色は必要であり、その反面、時代背景や考証がいい加減な時代小説となると相手にしないという人もいる。また、歴史小説と時代小説の中間的な作品も多い。
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Historical Novelの訳語
紀実小説
歴史紀実小説
19世紀頭のスコットランドの小説家、ウォルター・スコットはイギリス文学のみならず、西洋文学における歴史小説の先駆者である。

1814年に発表された『ウェイヴァリー』に続く一連の作品は多くの模倣者を生み出し、歴史小説という新しいジャンルを確立した。19世紀前半におけるヨーロッパの歴史小説ブームの背景には、フランス革命後、民主化の進む社会において、一般市民の居場所のある新しい歴史観が求められていたからとする説もある。

イギリスにおいては、歴史小説はその後ひとたび停滞するが、1880年代に再びその勢いを取り戻した。

2009年04月25日

クテシフォン

紀元前1世紀頃にこの地域一帯を支配したパルティア王国によって建造され、その首都として栄えた。古代より豊かな土壌で知られたメソポタミアの中心として、また東西交易の重要な中継地としての役割を担い、パルティア滅亡後にサーサーン朝ペルシアの時代になっても首都が置かれて政治と経済の中心地であり続けた。イスラム支配期以降は衰え、廃墟となった。

砂漠地帯に多い日干し煉瓦や、ローマの水道橋などに見られるアーチを組む技術など、まさに東西の交易の中心地らしい遺跡が数多く残っている。
クテシフォンは紀元前1世紀のパルティア王国の時代に脚光を浴びるようになり、ほとんどの王はここを都とした。その重要性のために、ローマ帝国が東方を征服するときの軍事的な目標となった。クテシフォンはローマ帝国(または東ローマ帝国)により5回占領されたが、そのうち3回は紀元2世紀のことである。トラヤヌス帝は116年にクテシフォンを占領したが、1年後にハドリアヌス帝は和平のために返還せざるを得なかった。ローマの将軍アウィディウス・カシウスは164年、対パルティア戦争の間にクテシフォンを占領したが、和平により放棄した。197年、セプティミウス・セウェルス帝はクテシフォンを略奪し、数千人(おそらく最大で1万人)の住人を連れ去って奴隷とした。

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3世紀の終わりにサーサーン朝がパルティアに取って代わると、クテシフォンは再びローマとの係争地となった。295年、ガレリウス帝はクテシフォンの近くでペルシアに敗北した。屈辱を晴らすためガレリウスは1年後に舞い戻り、戦争に大勝して4度目の占領を行った。ガレリウスはアルメニアと引き換えにクテシフォンをナルセ1世に返還した。325年ごろと410年、クテシフォン(または対岸のギリシャ人入植地)でアッシリア東方教会の会議が開催された。

363年、ユリアヌス帝はシャープール2世との戦争中に、クテシフォンの市壁の外で死んだ。627年、東ローマ帝国のヘラクレイオス帝がサーサーン朝の首都であるクテシフォンを包囲したが、和平を結んで引き揚げた。

637年、正統カリフ・ウマルの時代にアラブ諸部族から成るムスリム軍による対サーサーン朝との戦争はついにイラク(メソポタミア)にまで及び、イラク地方に進攻したサアド・ブン・アビー=ワッカースが率いる部隊はサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世が派遣した総司令官ルスタム麾下のサーサーン朝軍に対し、カーディスィーヤの戦いにおいて勝利した。サアド率いるムスリム軍はチグチス東岸の諸都市を次々に征服しクテシフォン近郊まで迫ったため、これによってヤズデギルド3世は北東にあったフルワーンまで逃亡した。アッバース朝時代の記録よると、この年は飢餓と悪疫に見回れ防衛戦力の低下に悩まされていたが、クテシフォンの守備軍はとチグリス川に掛かる全ての船橋を落としてムスリム軍の侵攻を防ぎ抗戦した。しかしムスリム軍は人馬ともに水流に乗って渡河する作戦に出た。クテシフォンの各地区はムスリム軍に対しておのおの抗戦しあるいは帰順したが、ついにはクテシフォンの全地区は陥落した。征服によって人口が減ることはなかったが、政治的・経済的な中心地がほかに移り、8世紀始めにアッバース朝の首都がバグダードに定められると、都市は急速に衰え、やがてゴーストタウンとなった。『千夜一夜物語』に現れる都市「イスバニル」は、クテシフォンを基にしていると考えられる(139話、第667夜)。

1915年11月、クテシフォンの遺跡は第一次世界大戦の戦場となった。オスマン帝国軍がバグダードを奪おうとしたイギリス軍の部隊を撃破し、40マイル後退させて降伏させた。

クテシフォン(Ctesiphon)はイラクにある古代都市の遺跡。バグダードの南東、チグリス川東岸に位置する。チグリス川を挟んで対岸にあったセレウキア(セレウケイア)と併せてクテシフォン・セレウキアなどとも称する。中期ペルシア語(パフラヴィー語)では Tyspwn / Tīsfōn 、アッバース朝以降のアラビア語資料では「都市( Madīna)」の複数形である「アル=マダーイン」 al-Madā’in と呼ばれている。

2009年04月09日

民謡(みんよう)

民謡(みんよう)とは、特定の国や地域において、主に口承によって伝わってきた伝統的な歌唱曲。民族音楽の一種。

民謡の中には、童歌(わらべうた)や子守唄など子供向きのものも多い。

邦楽の一種である日本の民謡は、古代から続く伝統的な歌唱曲の総称で、大部分は歌のみで楽器は加わらない。日本語の発声、韻から生まれたもので日本固有の音楽の原点といえる。陽旋法(長調)のものは、ヨナ抜き音階である。1987年(昭和62年)の調査では現存する民謡は、およそ58,000曲である。なお、狭義では琉球民謡、アイヌ民謡を含まないこともある。広義では、広く人口に膾炙した歌という意味で、流行歌なども含むことがある。

特定の集団、農村や職業集団に固有の歌謡という捉え方が一般的だが、一方、数世代に渡って体験的に継承されたものに限り、芸能を専門とする者が修正を加えたものは除外するという立場もある。

民謡という呼び名は明治時代半ば、民俗学など学問的な必要からドイツ語のVolksliedもしくは英語のfolk songの訳語として創出された。それ以前は地域や時代により様々に呼ばれていたものを総称したものである。当時は里謡、俚謡とも呼ばれた。

明治時代後期から大正時代にかけて北原白秋らによって新たに創作された民謡は、それまでの民謡と区別して新民謡、もしくは創作民謡と呼ばれる。また大正時代から昭和初期にかけて中山晋平、藤井清水、野口雨情、西條八十らによって創作された、主に地域の宣伝のための新民謡は、特に「地方小唄」と呼ぶ場合がある。

ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ


2009年03月25日

遠州鉄道

遠州鉄道株式会社(えんしゅうてつどう)は、静岡県浜松市で鉄道路線1路線と、静岡県西部でバスを運営している会社である。略称は遠鉄(えんてつ)。本社は浜松市中区旭町12番地の1(フォルテ内)、鉄道営業所は浜松市東区西ヶ崎町686-1にある。

かつては鉄道路線として中ノ町線、笠井線、奥山線も有していたが、現在は鉄道線(旧称:西鹿島線/二俣線)が残るのみである。また浜松市街では幾度か路線変更が行われている。

歴史 [編集]
1907年(明治40年) - 浜松鉄道株式会社設立
1908年(明治41年) - 浜松鉄道株式会社が大日本軌道株式会社に吸収され浜松支社となる
1909年(明治42年) - 中ノ町線(遠州馬込駅 - 中ノ町駅)開業
同年 鹿島線(後の二俣線、現:鉄道線)開業
1914年(大正3年) - 笠井線(遠州西ヶ崎駅 - 笠井駅)開業
1919年(大正8年) - 遠州軌道株式会社に譲渡
1921年(大正10年) - 遠州電気鉄道株式会社に改称
1923年(大正12年) - 二俣線(現・鉄道線)を改軌・電化
1925年(大正14年) - 中ノ町線・笠井線を浜松軌道株式会社として分離
1927年(昭和2年) - 二俣線(現・鉄道線)全線開業
同年 浜松軌道が浜松電気鉄道株式会社に社名変更
1937年(昭和12年) - 浜松電気鉄道 中ノ町線廃止
1943年(昭和18年)11月1日 - 遠州電気鉄道株式会社など6社が合併し遠州鉄道株式会社設立
1944年(昭和19年) - 浜松電気鉄道 笠井線廃止
1947年(昭和22年)5月1日 - 浜松鉄道株式会社と合併し、同社の路線を奥山線(遠鉄浜松駅 - 奥山駅)とする。
1963年(昭和38年)5月1日 - 奥山線(気賀口駅 - 奥山駅)廃止
1964年(昭和39年)11月1日 - 奥山線全線廃止
1985年(昭和60年)12月1日 - 鉄道線新浜松駅 - 助信駅間高架化(遠州馬込駅廃止)
1986年(昭和61年)12月1日 - 浜松市営バス路線を移管完了

鉄道事業 [編集]

現有路線 [編集]
鉄道線(西鹿島線) 新浜松駅 - 西鹿島駅 17.8km

廃止路線 [編集]
分社した路線も含む。

奥山線 遠鉄浜松駅 - 奥山駅 25.7km
中ノ町線 遠州馬込駅 - 中ノ町駅 7.0km
笠井線 遠州西ヶ崎駅 - 笠井駅 2.3km

富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

2009年03月09日

ウィーン・フィルの指揮台に登場した主な指揮者

アルトゥール・ニキシュ
ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者出身である。ハンス・リヒターもかつてウィーン・フィルのホルン奏者であった。
リヒャルト・シュトラウス
一時期ウィーン国立歌劇場の総監督を務めたこともあり(シャルクと共同)、作曲家、指揮者としてウィーン・フィルとの絆は極めて強かった。1944年ウィーン・フィルはシュトラウス80歳記念の祝賀行事を催している。同時期にラジオ放送のためにシュトラウスの主要曲のほとんどが録音され、現存している。また、ウィーン・フィルと共に「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」全曲を演奏するシーンがニュース映画のためフィルム収録されており、その歴史的に非常に貴重な映像を現在も観ることができる。
ウィーン・フィルが楽劇『サロメ』を演奏・上演する際、ヨカナーンの首が斬られる時にコントラバス全員が足踏みをして音を鳴らすという伝統[要出典]があり、今も行われている。
「家庭交響曲」終楽章のクライマックスでのティンパニのニ長調の音階は、ウィーン・フィルの楽員が考案したものである。スコアには記載されていないが、パート譜には作曲者の了解済みで記されており、現在もそのように頻繁に演奏されている。
フランツ・シャルク
シュトラウスと同時期にウィーン国立歌劇場の総監督を長らく務め、楽員にとって厳しくも温かい師のような存在であった。戦前に初めて交響曲をウィーン・フィルでSP録音した指揮者でもある。死の床で後継者クレメンス・クラウスに「私のウィーン・フィルをよろしく頼む」という有名な言葉を遺してこの世を去った。
ハンス・プフィッツナー
シュトラウス同様、指揮者としてしばしばウィーン・フィルの指揮台に立った。晩年身寄りがなく生活苦に陥った老作曲家に、ウィーン・フィルは救いの手を差し伸べた。名誉会員に推挙し、年金を与えたのである。プフィッツナーは歌劇「パレストリーナ」の自筆譜を贈ることで感謝の意を表した。
アルトゥーロ・トスカニーニ
1933年から1937年にかけて楽団長フーゴー・ブルクハウザーの招きで頻繁に共演した。戦前のザルツブルク音楽祭で指揮した「ファルスタッフ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「フィデリオ」などは現在でも語り草になるほどの伝説的名演であった。両者の関係は周囲の予想に反して概ね良好であったが、ある時ブダペストでの公演で、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲で自ら振り間違えたために演奏が大きな瑕が生じ、そのことに腹を立てた癇癪持ちのマエストロに、彼よりさらに年長のコンサートマスター、アルノルト・ロゼーが反発し、終演後の指揮者の起立の合図に従わないという事件があった(トスカニーニはロゼーを大変尊敬しており、ロゼーの誕生日に花束を持ってリハーサルに登場したこともあったという)。
ウィレム・メンゲルベルク
共演回数は多くないが、その濃厚な芸風と楽員に対する独裁的な態度、リハーサルでの非常に長い説教で楽員に強烈な印象を与えた。メンゲルベルクとのアムステルダム公演で、ベートーヴェンの「運命」をアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の所有するパート譜で演奏したとき、楽譜に「ここでジプシーの話が始まる」と記されており、実際練習中にメンゲルベルクはその箇所でジプシーの話を始めたという。また、楽員の態度なども非常に口うるさく、名奏者レオポルト・ヴラッハが休符の間にクラリネットを膝に立てて置く癖が気に入らず注意したが、「先生、私はあなたが指揮をなさらない時、指揮棒をどう持つべきかとやかく言うつもりはありません」とやり返されたという。
メンゲルベルクはしばしば「あなた方は今よりももっとマーラーを弾くようになることでしょう」と語っており、その予言は戦後現実のものとなった。
ハンス・クナッパーツブッシュ
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

巨人の足取りを想わせる悠揚迫らぬ芸風、素朴で温かな人柄、大変な練習嫌いなどでウィーン・フィルに最も愛された巨匠の一人(ウィーン・フィルも練習嫌いなことで有名)。クナは楽員たちと個人的に親しく付き合い、練習の合間や演奏旅行の列車の中で楽員とカード遊びに興じたという。大病を患った後、晩年にウィーン・フィルを指揮した演奏会は、その度ごとに告別の雰囲気が漂ったというが、その演奏会のVTRが近年発掘されてDVDとなり、大きな話題を呼んだ。
オットー・クレンペラー
共演回数は決して多くないが(ウィーン・フィルのギャランティーが他のオケより少ないことも理由の一つだったようだ)、晩年に近い1968年のウィーン芸術週間では連続して5回のコンサートを開き、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーなどで数々の名演を残した(その時の実況録音は全てCD化されている)。
クレンペラーは度重なる大病、怪我により晩年体が不自由になり、手がうまく動かせないため、アンサンブルはオケの自発性に任された。上記ウィーン芸術週間でのモーツァルトのセレナード第12番「ナハトムジーク」では、ファゴット奏者による客席には聴こえない程度の低音をアインザッツの合図とするよう木管奏者たちが申し合わせており、実際そうされたという(録音にも残っている)。

2009年02月21日

サザンオールスターズ

サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。公式ファンクラブ名は「サザンオールスターズ応援団」である。

これまでのアルバム、シングルの情報についてはサザンオールスターズのディスコグラフィ
桑田佳祐/リードボーカル、ギター(リーダー)
関口和之/ベース、コーラス、ボーカル
松田弘/ドラム、コーラス、ボーカル
原由子/キーボード、ボーカル、コーラス
野沢秀行(毛ガニ)/パーカッション、コーラス
各メンバーがコーラスを担当、更に野沢以外はメインボーカル曲があり、作詞・作曲もこなす。
シングル曲などほぼすべての曲の作詞作曲編曲を桑田佳祐が担当。
連名は基本的に桑田、大森、関口、松田、原、野沢の順で統一されている。
大森脱退後は桑田、関口、松田、原、野沢の順になっている。

1978年のデビュー以来、30年の間日本のポップミュージックの第一線を走り続けるバンドとして知られる。楽曲はロック色の強いものから、バラード、民族音楽・郷土音楽からテクノ・デジタルロックまで幅広いレパートリーの楽曲があり、題材は愛・セックス・郷土愛・ユーモア・社会風刺など多岐にわたる。老若男女幅広い層のファンを持ち、各界にもサザンのファンであると発言・公言した著名人が数多く存在する。

代表曲は1970年代に『勝手にシンドバッド』、『いとしのエリー』、1980年代に『チャコの海岸物語』『ミス・ブランニュー・デイ』、1990年代には『涙のキッス』『エロティカ・セブン』『愛の言霊 〜Spiritual Message?』などのミリオンセラーを達成したほか、2000年代に入っても『TSUNAMI』『涙の海で抱かれたい 〜?SEA OF LOVE〜?』がヒットするなど多数にわたる。1970年代から4つの年代全てで50万枚以上のヒット作を生み出し、うち3つの年代でオリコンチャート1位作品がある。

歴史

結成からデビューまで
1975年頃、青山学院大学で活動が始まり[1]、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される[1]。初期の頃は“温泉あんまももひきバンド”、“ピストン桑田とシリンダーズ”、“ピストン桑田と脳卒中”、“桑田佳祐とヒッチコック劇場”など、奇抜なバンド名でコンテスト毎に何度もバンド名とメンバーを変更していたが[1]、最終的には原由子参加の際、桑田の青学時代の同級生である宮治淳一(現:ワーナーミュージック・ジャパン ストラテジック本部シニア・チーフプロデューサー)が、サザン・ロックと、アメリカサルサ・グループ、ファニア・オールスターズを組み合わせた“サザンオールスターズ”を風呂の中で安易に思いつき、そのまま使用することとなった[2]。この「オールスターズ」には、これ以上バンド名を考えるのが面倒で、また、メンバーチェンジがあってもいいように流動的に入れ替わる全てのメンバーを総称してのバンド名という意味もあった[2]。また、当初は“桑田佳祐&サザンオールスターズ”と名乗っていた[2]。「サザンオールスターズ」名義での最初のライブは公式ページには1976年4月11日と記されており、この時桑田は「じゃあ司会が『サザンオールスターズの皆さんです』と紹介したら出るんだな?」と段取りの確認を行っただけだったとされる。

幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わり、メンバーはデビュー時の6人に固まった[1]。この編成は、サザン・ロックの雄・リトル・フィートの、リードギター・サイドギター・ベース・ドラムス・キーボード・パーカッションの6人編成と同じという所以もある。当時はセミプロとして活動していた野沢は当初バンドへの参加を断り続けていたが、コンクール出場が決定した際になって突如参加することになったという経緯があった。冗談ではあるが、この後メンバーによって「知らない間に野沢がメンバーに加わっていた」「現在も正式メンバーではない」ともいわれている[3]。この頃には頭部分の「桑田佳祐 &」が取れ、グループ名がサザンオールスターズとなる[2][4]。なお、原の著書によればこの頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。公式ページではこの1972年から1977年までを「夜明け前」と呼称している。

当初は独特かつ奇抜なその音楽性が敬遠され、大手の事務所はサザンを敬遠していたが、当時新興事務所であったアミューズの大里洋吉社長(当時)が「フォークソングの時代は終わり、これからはロックの時代が来る」という判断の下でスカウトした。ただし、メンバーの大里に対する第一印象はあまり良いものではなかったという。また、大森と大里がデビューにむけて着々と準備を進めるなか、焦ったためか桑田がワーナー・パイオニアとレコード契約を結んでしまったというエピソードもある。この件は関係者が出向いて話を収めたという。

1978年6月25日にシングル『勝手にシンドバッド』でビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)からデビューし、それまであった歌謡曲やロックなどのジャンルにとらわれない、衝撃的な印象を残す。年内には同曲のスマッシュヒットで一躍スターダムにのし上がった。だが、当初は桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言[5][6](ただしこれらの発言などは全て台本に沿って行っただけであると後年明かした[7])、ジョギングシャツ+ジョギングパンツスタイル(桑田によると、事務所から衣装代として1万円が渡され、たまたま入ったスポーツ洋品店の店員が「まけてくれる」と言ったことから、なんとなく着ただけであるとのこと)[7]、「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった[2]。原の回想によると、某番組内でウルトラ警備隊のコスプレをさせられ、とても恥ずかしい思いをした、と語っている。デビューに際し、当時はテレビへの出演拒否を大々的に行うフォークシンガーを中心としたミュージシャンが多い中で、事務所側はあえて『ザ・ベストテン』等の音楽番組に積極的に出演させ、ドラマ・CM等のタイアップを図る等のやり方でお茶の間層の取り込みを狙うという戦略を取っていた。

だが、翌年の3月25日に発売した3rdシングル『いとしのエリー』の発表後から「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした[8]。しかし、その中での多忙な生活は桑田を苦しめ、一時期ノイローゼになるほどに疲れきっていたと語っている[1]。そのような中“FIVE ROCK SHOW”と銘打って「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」と発表[9]。

音楽製作への専念 - 「最高傑作」『KAMAKURA』発売後、活動休止へ
1980年、“FIVE ROCK SHOW”計画がスタート。「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」と発表したが、そのシングルはメディアへの露出が大幅に減ったのも影響したのか、どれも「ヒット」と呼ぶには至らなかった。この間の1981年発売のシングル『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』は現在でもサザンの全シングル中ワーストの売り上げを記録している[10]通り、アルバムは毎回チャート上位を獲得するものの、シングルは売り上げが低迷する状態が続いた。

1982年、1月21日に発売したシングル『チャコの海岸物語』が大ヒット。桑田は当時人気絶頂であったアイドル・田原俊彦の声色を意識して歌うなど、起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった[11]。この直後、桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。

1985年にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。数回の発売延期を重ねつつも長期間のレコーディングセッションの中で生まれたこの濃密なアルバムは、サザン史上最高のアルバムとして評されている[1]。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため、一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。

活動再開 - 小林武史とのコラボ
1988年6月25日、デビュー10周年の記念となる日にシングル『みんなのうた』を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。加えてこのシングルから小林武史がアレンジ、プロデュース業を共に行うようになっている。前年に桑田はソロ活動で小林と共同プロデュースを行い、非常に完成度の高いアルバムを作っていた。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っており[12]、その流れでサザン本体にも合流したものとされる。

この時期から楽曲製作に関して「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー・マニピュレーター+レコーディングエンジニア」という図式が見られるようになり[13]、桑田以外のメンバーが干渉する割合が減ったと言われている。小林と桑田はさらに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた[14]。

1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年、7月21日に『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度』『涙のキッス』を2枚同時発売し、サザン初、そしてオリコンとしても初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。『涙のキッス』はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、1ヶ月近くオリコン首位をキープするなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した。

1993年には『エロティカ・セブン』がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録[16]。そんな中、1994年には桑田がソロ活動を再開、サザンの活動は約1年間休止となった。

セルフアレンジ時代へ
小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由はファンに明らかにされてはいないが、桑田は「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っており[17]、蜜月の終わりを示唆している。この「危ないヤツ」という表現は、人間性を否定しているものではなく、アレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて、小林に頼りすぎてしまうという意味で発言したものである[17]。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林とMr.Childrenの桜井和寿らが中心となって活動するap bank fesへの出演など、作品面以外での交友が続いている。

1995年、関口が長期の休養から復帰し、5月22日にシングル『マンピーのG★SPOT』で活動を再開。これ以降プロデュース名義は主にサザンオールスターズと表記されるようになった。直後に発売されたシングル『あなただけを 〜?Summer Heartbreak〜?』はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌として起用され、ミリオンを超えるセールスを記録した。その後も1996年に『愛の言霊 〜?Spiritual Message』がミリオン突破するなどし、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。

しかし、1997年あたりからサザンのイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠い、ハードロックなどを意識した曲を多くリリースするようになり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベストアルバムリリースブームの中『海のYeah!!』を発売し、大ヒットを記録した。しかしほぼ同時に発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や、上記のハードロックを意識した作品であったため、過去のアルバム3作連続で記録したミリオンを僅かに下回る結果となった。1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したが、シングル『イエローマン 〜?星の王子様〜?』は、累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。

『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
1999年9月26日、27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ『可愛いミーナ』の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。翌2000年、1月26日にシングル『TSUNAMI』を発売。この曲は前述のイベントから生まれた曲であり、「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。このヒット以降、サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。

サザンのシングルでは久々となった切ないラブバラードのこの曲は、当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり、日本音楽史上記録的な大ヒットとなる(再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングル売り上げランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位にランクインされている)。かねて何度も逃したレコード大賞もこの年に獲得した。『TSUNAMI』を機にサザンは長らく続いたセールス低迷から脱け出し、続く『HOTEL PACIFIC』もヒットを記録、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜?あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。

一方、そのライブが終了した直後に大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。桑田はシングル『波乗りジョニー』『白い恋人達』がそれぞれミリオンを超える大ヒットを飛ばした。

25周年での活動再開、『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム発表
2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD『勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス』をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げ、発売から25年のブランクを置いてオリコンウィークリーチャートで1位を記録。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施するなど、幅広い人気を見せつけている。

7月23日、シングル『涙の海で抱かれたい 〜?SEA OF LOVE〜?』をリリースし活動再開。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い、復活をアピールした。2005年には、『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売、2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催し、サザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動したが、2007年4月には桑田佳祐のソロ活動再開に伴い再び休止することとなった。

30周年、そしてバンド活動無期限休止へ
2008年、30周年に伴うシングル発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべく、サザンオールスターズとしての活動を無期限休止にすることも発表した(2006年のTHE 夢人島 Fes.を最後に、実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。期限を設けない活動休止は、原の出産・KUWATA BANDの活動などがあった1985年 - 1986年(活動休止は1988年夏まで)以来2回目のことである。

この活動休止については、発表の当日にNHKテレビの『おはよう日本』がこのニュースを報じた他、民放各局で大々的に取り上げるなど、日本のミュージシャン・ユニットの話題としては異例の報道や特集がなされ、反響を呼んでいる状況である。

桑田自身は『活動休止の理由は、より新しいものをつくるための充電期間』としている。また、『(キラーストリートで)現状でのサザンでできることのほぼすべてをやりつくした』、『今のままでも活動を続けようと思えばできるが、それではサザンという看板にぶらさがっているだけで、甘えているだけになってしまう』とも語った。また、『(サザンの)解散は絶対にない』と断言している

2009年02月05日

SAMURAI SPIRITS 〜破天降魔の章〜

1994年にフジテレビ系で放送された単発のテレビアニメ作品。ゲームとは異なるオリジナルストーリーである。DVDと小説(著・岸間信明)が発売されている。覇王丸の声をSMAPの香取慎吾が当てた事、『真サムライスピリッツ』に於ける覇王丸の隠し技である天覇封神斬のコマンドを番組中で公開した事で有名。当初は番組の最後に技紹介のコーナーを設けると思われていたが、実際には覇王丸が天覇封神斬を出す瞬間に閃光がコマンド型に走るという演出だったので、それに気づいた視聴者は少なかった。放映枠の時間の関係か、右京が本編中に登場するシーンはカットされており、エンディングのスタッフロールのバックに映像が流れるのみであった。この未公開シーンは後にビデオ化された時にも補完される事はなかった。ちなみに本作のヒロインはナコルルではなくシャルロットである。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

ストーリー
時は寛永15年、島原の乱。善神アニスレイザに選ばれた聖剣士達は、天草四郎時貞と対峙していた。天草も聖剣士の1人だったが、仲間を裏切り邪神アンブロジァの封印を解いていた。アンブロジァの力を得た天草は聖剣士達を亡き者とするが、アニスレイザによってその魂は100年後の未来へ転生される。
そして100年後、徳川吉宗の治世。天草は吉宗を屈服させ転生した聖剣士達の行方を捜していた。一方転生した聖剣士の王虎、ナコルル、タムタム、ガルフォード、シャルロットの5人も最後の1人を探しに日本へ。その最後の1人である覇王丸は未覚醒で前世の記憶もなく、自慢の剣術で道場破りをして暮らしていた。しかし、ある日彼の暮らす村が謎の兵士達によって襲われる……。
スタッフ
企画:清水賢治(フジテレビ)、片岡義朗(NAS)
監督:石踊宏
脚本:岸間信明
キャラクターデザイン・総作画監督:岩倉和憲
色彩設計:佐藤和子
美術監督:西川淳一郎
撮影監督:森下成一
編集:岡安肇
音響監督:三間雅文
音楽:和田薫
プロデューサー:鈴木吉弘(フジテレビ)、山崎立士(NAS)、茂垣弘道(コメット)
制作協力(アニメーション制作):スタジオコメット
制作:フジテレビ、NAS
主題歌
ED「"大好き"という嘘をついた」(作詞:橙育琉 作曲・編曲:岩崎文紀 歌:GWINKO)
イメージソング「BRAND-NEW SPIRITS」(作詞:原真弓 作曲:新世界楽曲雑技団 歌:千葉麗子)
声の出演
覇王丸:香取慎吾
ナコルル:千葉麗子
服部半蔵:青野武
ガルフォード:高木渉
王虎:玄田哲章
千両狂死郎:三ツ矢雄二
柳生十兵衛:地井武男
不知火幻庵:北村弘一
タムタム:子安武人
アースクェイク:笹岡繁蔵
シャルロット:玉川紗己子
橘右京:なし(登場はするが喋らない)
天草四郎時貞:大輝ゆう

SAMURAI SPIRITS 2 〜アスラ斬魔伝〜
1999年にOVAとして発表された作品(全2巻)。主人公はナコルル。キャストはゲーム版と同一である。当時、同人誌や雑誌のコラム等でナコルルのファンである事を強烈にアピールしていた七瀬葵をキャラクターデザインに起用している。

スタッフ
監督:佐々木和宏
キャラクターデザイン:七瀬葵
声の出演
ナコルル:生駒治美
覇王丸:中村大樹
服部半蔵:新居利光
ガルフォード:小市慢太郎
橘右京:や乃えいじ
牙神幻十郎:コング桑田
リムルル:神谷けいこ
風間蒼月:及川直紀
風間火月:山西惇
色:南かおり
柳生磐馬:渡辺健
壊帝ユガ:中谷さとみ
八角泰山:山内圭哉
アスラ:一条和矢

漫画
「サムライスピリッツ」(島本和彦)
講談社、デラックスボンボン連載
「サムライスピリッツ」(内藤泰弘)
徳間書店、ファミリーコンピュータMagazine連載
「魔界武芸帖 サムライスピリッツ」(原作・七月鏡一/漫画・三好雄己)
小学館、増刊少年サンデー連載
「サムライスピリッツ 島原天草邪神城攻略編」(石川賢)
講談社、覇王マガジン連載
「サムライスピリッツ カントリーロード雪伝」(島津わか乃)
芸文社、ネオジオフリーク連載
「剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃〜サムライスピリッツ新章〜 」(矢口岳)
講談社、月刊マガジンZ連載

小説
サムライスピリッツ 破天降魔の章
前述のアニメ版の小説化作品。作者は岸間信明。1994年12月発売。ISBN 978-4-09-440391-6
サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣
作者はいさき玲衣。1996年7月発売。ISBN 978-4-89366-543-0
サムライスピリッツ 天草降臨 夏の風花
作者は嬉野秋彦。1997年3月発売。ISBN 978-4-89366-675-8
真説サムライスピリッツ 武士道烈伝
作者はいさき玲衣。RPG版の小説化作品。「天草編」(1997年6月発売。ISBN 978-4-89366-715-1)と「ミヅキ編」(1997年7月発売。ISBN 978-4-89366-752-6)の2冊が発売されていた。

派生作品

ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜
2001年に発表されたナコルルがヒロインのアドベンチャーゲーム。Windows版とドリームキャスト(DC)版がある。制作の「ナコルル制作委員会」には「サムライスピリッツ」でナコルルを作った企画(セイウチ)など、SNKのスタッフが参加している。

初代『サムライスピリッツ』から『真サムライスピリッツ』へと続く話で、戦いを終えてカムイコタンに帰ってきたナコルル達の生活を、ナコルルの従者である主人公の「ミカト」の視点から描いている。ただし、サムライスピリッツのシリーズとは設定に矛盾があるため(ナコルルの祖父母の設定や、本作で語られる結末部分)パラレルワールドに位置する。

紫ナコルルの設定を元にした「レラ」が初登場した作品。本作のオリジナルキャラクターの「マナリ」は、『CAPCOM vs SNK 2』にもナコルルの試合前のデモ等で登場する。ファンからは「ナコりもの」という略称で呼ばれている。

声の出演
ナコルル/レラ:生駒治美
マナリ:川澄綾子
リムルル:神谷けいこ
ヤンタムゥ:子安武人
ウババ:氷上恭子
ミババ:モンスター前塚
ヒババ:や乃えいじ
ホクテ:蓮池拓也
オユダタ:重塚利弘
ミカト:矢野裕紀子
羅将神ミヅキ:土屋実紀

ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜 郷里之畏友編
『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』のアニメ化作品。2002年にOVAとして発表。主人公はミカトからナコルルに変更されている。発売元のグルーヴコーポレーションが倒産した影響で続編の製作は中止になったらしく、ストーリーは中途半端に終ってしまっている。作中に複数回あるサービスシーンではナコルルの乳首が描かれている等、ある意味貴重な作品。

スタッフ
原作:有限会社インターレッツ
製作:成澤章
企画:尾川匠
プロデューサー:野崎慎太郎
スーパーバイザー:Dr.POCHI
監督:金澤勝眞
脚本:たきもとまさし、松川しゅうさく
キャラクター原案:44
キャラターデザイン:梅津泰臣
作画監督、絵コンテ:宮澤努
演出:草川啓造
美術監督:池田繁美
色彩設定:北沢希美子
撮影監督:森口洋輔
音響監督:本田保則
音楽:山手安生
制作:ARMS
製作:グルーヴコーポレーション
主題歌
エンディングテーマ「巫女の伝承唄」(作詞:たきもとまさし 作曲、編曲:山手安生 歌:生駒治美)
挿入歌「二番目の奇跡」(作詞:松川しゅうさく 作曲、編曲:山手安生 歌:川澄綾子)
声の出演
ナコルル:生駒治美
マナリ:川澄綾子
ヤンタムゥ:子安武人
リムルル:神谷けいこ
レラ、ナコルルの母:氷上恭子
ミババ:福島七菜子
ウババ:藤井あさこ
ヒババ:津野田なるみ
ミカト:松来未祐
ホクテ:森田チアキ
長老:麻生智久
子供A:桃森すもも
子供C:小林恵美
村人:藤原泰浩

Days of Memories 〜大江戸恋愛絵巻〜
i-mode用アプリとして配信された『Days of Memoriesシリーズ』の3作目で、『サムライスピリッツシリーズ』のキャラクターによる恋愛シミュレーションゲーム。第1作の『Days of Memories 〜僕と彼女の熱い夏〜』と第2作の『Days of Memories 2 〜僕の一番大切な君へ〜』と同時収録でニンテンドーDS(DS)へ移植された。

なお、タイトルに「大江戸」とあるが舞台は大坂の江坂である。

電子メイド手帳 恋のいろは
『天下一剣客伝』から参戦した「いろは」をフィーチャーしたスケジュール管理ソフトがニンテンドーDSで発売予定。スケジュール管理機能だけではなく、育成や着せ替えの要素もある模様。

恋のいろは
2008年よりi-mode用アプリとして配信されているビジュアルノベルのシリーズ。ヒロインは「いろは」で、舞台は現代。サブタイトルは1作目が『〜さくら咲く春〜』、2作目が『〜ひまわり輝く夏〜』。

タイトルロゴが『電子メイド手帖 恋のいろは』の「恋のいろは」の部分と共通している。

2009年01月21日

果実と野菜

主食になることが多い穀物のほかに、キャベツ・カブ・タマネギ・ニンニク・ニンジンなど野菜は素材としてよく使われた。農民や労働者は毎日のように野菜を食べたが、野菜は食肉ほど高級品ではなかった。中世後期になると贅沢品を購入する資力があるものを対象にした料理本が現れたが、掲載されたのはわずかに野菜を使ったレシピと副菜で、本によってはポタージュが追加される程度だった。中世にはいろいろな品種のニンジンが入手でき、なかには風味のよい赤紫色のものや、やや低級な黄緑色のものもあった。ヒヨコマメ・ソラマメ・エンドウマメなど各種マメ類も普及しており、タンパク質の供給源として貴重だった。エンドウマメ以外は現代の食餌療法学から排除されてしまったが、マメ類には鼓腸を起こしやすい傾向があるのがその一因だろう。農民の多くがザワークラウトを一日に三度も四度も食べていたという16世紀ドイツの記録から、一般大衆にとって野菜がいかに重要であったのかをみてとることができる。

果実は人気があり、新鮮なものや乾燥したもの、砂糖漬け・ジャムに加工して食用に供されたほか、いろいろな肉料理の材料としてもよく使われた。砂糖・蜂蜜が高価だったことから、袖の下や甘い汁を要求するさいの料理には各種の果実を入れるのが普通だった。ヨーロッパ南部の代表的な果実にはレモン・シトロン・ダイダイ(甘味の強いオレンジが持ち込まれるのは数百年後)・ザクロ・カリン・ブドウがあった。北部ではリンゴ・西洋ナシ・プラム・イチゴがよく出回っていた。イチジク・ナツメヤシはヨーロッパ全土で食べられていたが、北部では高価な輸入品という位置づけだった。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸から持ち帰る15世紀後半までは手に入らず、その後新しい食材として社会の多数者に受け入れられるまでに長い時間がかかったが、近代以後ヨーロッパ料理でよく使われているものには、ジャガイモ・インゲンマメ・カカオ・バニラ・トマト・トウガラシ・トウモロコシなどがあり、なかには基本的な食材になったものもある
狩猟の獲物は何であれ、これを入手できるものには人気があったが、肉のほとんどは家畜化された動物のものだった。牛肉は今日ほど普及していなかったが、その理由は畜牛の飼育は労働集約的で牧草と飼料が必要であり、また牛は使役動物としてや乳の生産のための価値のほうが高かったからである。使役に耐えられずに屠殺されたものはあまり食欲をそそるものではなくその価値も低かった。むしろ普及していたのは豚肉であったが、これは豚は飼育に手がかからず餌も安くつくからに他ならない。家畜化された豚はしばしば市中をも走り回り、どんな残飯でも餌にできたらしい。また仔豚はごちそうとしてひっぱりだこだった。毛織物産業の集積地を中心にマトンやラムが普及しており、(偽って)仔牛の肉としてつかわれた。今日の西洋世界とは違い、耳・鼻・尾・舌・子宮に至るまで動物の全身を食べつくした。腸・膀胱・胃はソーセージの包装材として使われたり、巨大な卵など架空の食材につかわれたらしい。ハリネズミやヤマアラシは今日ではあまりみられず食用として不適とみられているが、中世後期のレシピ集には時々みられる[16]。いずれもその英語名(hedgehog と porcupine)にみるとおり小型の豚とみなされていた。

ハクチョウ・クジャク・ウズラ・イワシャコ・コウノトリ・ツル・ヒバリをはじめ狩猟の獲物になった鳥はなんでも食べられた。ハクチョウとクジャクはよく飼育されたが、これを食べるのは支配層だけであり、また肉よりむしろその美しい外観(息を呑むようなアントルメの装飾に使われた)が賞賛された。今日とおなじくガチョウやアヒルは飼育されていたものの鶏ほど好まれなかった。家禽は豚と同じように位置づけられた。興味深いことにカオジロガンは産卵によらずフジツボのなかで繁殖・成長すると信じられており、このために断食や四旬節祝いの食材として好ましいと思われていた[15]。

肉は植物性の食品よりも高価だった。タンパク質は豊富だが、熱量の重量比では植物性食品に劣っていた。肉はパンの4倍高価だったらしい。魚は16倍にもなり、海岸地帯の住民にとっても高価だった。この事実から断食は肉や乳・卵などの動物性食品を購うことができないものの貧しい食生活であったらしい。肉が貧困層にも普及するのはヨーロッパで黒死病が蔓延し人口が半減した後のことである。人口集積地帯での人口激減は労働力不足を招き、賃金は急上昇した。また広大な農地が放置されたため牧草地への転用が可能となり、市場に肉が出回るようになった
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

他の動物の肉ほど高級な扱いではなく、単に断食の日の肉の代替品とみられることもよくあったが、海産物は海岸地帯の住民の支えであった。中世人にとって「魚」とは陸生動物ではないものの総称であった。ここには海洋の哺乳類であるクジラ・イルカや、うろこ状の尾をもち潜水時間が長いビーバー、渡りの経路や繁殖地がわからないカオジロガンなどが含まれた。このような食品も断食の日に適切とみなされた[18]。海産物に関しきわめて重要だったのは大西洋やバルト海のニシン・タラ漁とその交易だった。ニシンは北ヨーロッパのほぼ全域で経済に比類ない意味をもっており、北ドイツの強力な交易ギルドであるハンザ同盟が取り扱う交易商品としても主要な位置を占めていた。北海産のニシンの燻製は遠くコンスタンチノープルの市場にも出回った。魚は新鮮なまま食されたほか、塩漬けや乾燥させることが多く、燻製はこれについで多かった。タラを二枚におろして竿に固定し乾燥させた干物は、木槌で叩いてから水に浸すなど下ごしらえに時間がかかった。カキ・ムラサキガイ・ホタテガイなど各種の軟体動物は海岸や川沿いの住民に食された。中央ヨーロッパなど内陸地方の住民にとって魚は肉よりはるかに高価で、なかなか手が出るものではなかった。カワカマス・コイ・ブリーム・パーチ・ヤツメウナギ・マスのような淡水魚はよく食された